◆≪最大成果を宣言≫ ちょっと頑張ろう 2457号   2016/5/30 月曜日

≪人材育成――部下育成の姿勢≫

━ 育成は、人の上に人を載せる。
自らの知識の上に、伝えられ者の知識を乗せて、伝達の意味を持つ。
自身を超えるようにと、育成が行われているはずだ。

超えるはずがないとすれば、発展は止まる。
自らを超えさせようとして、教わる者は成長を続ける。 ━


人材育成などと大仰には言えない。
育成などと言えるほど、自らが大成しているのでもなく、多くを知り、経験しているのでもない。
ただ、一つ言えるのは、
自分が知っていること、経験してきたことを、伝えるのが責務であるとするのみである。

自らが知っていること、理解していることなど高がしれている。
自らも一人から教わったのではない。
血縁者、友人、知人、師となるべき人、また、ニュース、書籍、等々、多くから学んでいる。
今も学び続け、完結したのではない。

多くの人の世話になり、今の自分があるのは間違いない。

だから、自らが会得したことを他に伝えようとするのは責務である。

賢しらに、教えようとすれば無理がくる。

伝えようとするとき、一つだけ、間違いのない姿勢が要る。
伝える相手に対して、自分を超える時が必ずくるだろうし、自分を超えて欲しいと願う。
育成は、この姿勢の上に成り立っている。
育成の本質がここにある。

教える者が、教わる者の上位者である必要はなく、上位者であるとするのが無理なのだ。

部下育成の部下は、仲間である。
仲間には、互いの役割があり、役割をそれぞれが果たす。
それぞれが十二分に役割を果たすようになり、自らを不要にして育成が完結するのかもしれない。
上司と部下との違いは責任の程度と範囲だけのはずだ。
責任の範囲において、「部下育成」が言われているにすぎない。
仲間たちが、各人の役割を十分に果たせるようになったとき、次のステップに入っていく。
さらに、充実させ、仕事を発展させようとする。
このとき、真の部下育成と言えるのかもしれない。

成長するために、出来る限りの手を貸す。

教えようとする者が、教える内容を伝えた瞬間、その意味は、受け取る者によって変化する。
書き表されたモノは固定したとしても、学ぶ者は、見た、聞いた瞬間に違うモノになっている。
彼らが、すでに持っているモノに、新しいモノが加わる。
元々に持っているモノは、教える者と教わる者と違うのだから、内容が既に違ってくる。
当然、使い方も変わる。

教える者が過ごしてきた時間、時代と、教わる者とは違う。
伝えられた内容が、双方にとって、これから同じ時間を過ごす。
教える者の知り得た内容は過去であり、教えられた者は、伝えられた位置から始まる。
当然、知識の活用が違ってくる。
教える者と教わる者の時間のステージが違っているのだから、得た知識の活用が異なる。

活用を見守り支援が大切である。

教える場と活用する場が違うかもしれない。

人は慣れた事柄を慣れたように行う。
新たに獲得した知識は、得た時点から工夫が始まる。
工夫して、自らの知識とし、同時に自らの道具とするのだ。

多くの場合、教えられた時よりは進歩しているはずだ。
でなければ、進歩も発展もない。
50年前の名医よりも、現在の新人の医師の方が名医である確率は高い理由である。

部下育成は、必ず、自らを超える。
自らを超えると期待して、伝えるところに、効果が現れてくるはずだ。



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