◆≪最大成果を宣言≫ ちょっと頑張ろう 2446号   2016/5/13 金曜日

≪知識と技術――定義、前提から目的へ≫

━ 定義、前提、アプローチ、行動の方向と方法、目的、これらが一つになって
より確かな行動が産まれる。
定義から目的までの一つ一つに、確かな認識が必要である。
定義から前提へ、前提からアプローチへ、
目的から見たアプローチの選択、目的から見た方法と方向、等々のつながり方に
知の技術が必要になる。

日々の行動の一つだけで良いから、定義から目的までを取り出して確認しておく。
何度かの確認を行なえば、知の技術として習慣が、身体に染みつく。 ━


始まりがあって、終わりがある。
終わりがあれば、次に必ず始まりがある。
次々に終えていけば、次々に始まりがある。
始まりと終わりが繰り返して、最初の始まりがどこであって、何時、終わるか分からない。
どこかで区切りをつけなくてはならない。

そう気付いたとき、自らの目的を考え始める。
考え始めなければ、目的を見つけられない。
気付かなければ、答えが出てくるはずもない。

始めと終わり、続いていく始まり、継続は気付きの最良の道具である。

物事を始めるには、始めるキッカケがある。
他の人に背中を押されたキッカケかもしれないが、押されるだけの理由がある。
自らの意思で始めたときは、明瞭さは別にして、前提がある。
一連の始めと終わりを繰り返している内に、前提が次第にはっきりしてくる。

事を始め、終えるためのアプローチがあり、行動の方法がある。

行動の方向と方法を、通常、プロセスというが、
プロセスだけを十二分にしても、目的に関わる成果は十分にはならない。

行動は他からも見える。
見えるから行動で、判断をする。
しかし、行動の前に、アプローチを作りだす知識があり、
いくつかのアプローチを選択するための前提があるのを忘れてはならない。
人を観察するとき、行動の前提を推測する試みが必要である。

さらには、前提を前提とした理由があるはずである。
前提が曖昧であれば、行動と目的は曖昧にならざるを得ない。
確信が持てる行動にはなり難い。
前提が確かであるとする根拠がある。
もし、タラレバで前提を求めているとしたら、成果に関わる範囲は小さくなり、リスクが増える。

前提は個人的ではあるが、主観で定めてはならない。
伝統と習慣で、前提を設定しているとすれば、通用するのは仲間内の一部にしか通用しない。
知識と技術をもって、知の技術をもって、前提を確認しておかねばならないのだ。

行動の内容、目的によって、前提とする内容が異なるが、
行動する限り目的の対象があって、対象への認識が必要である。
習慣、伝統は大切ではあるが、対象に対しては、自らの習慣などは意味をなさない。

どれ程に客観的であり、人、組織、社会のバランスが取れているかが問題になる。
前提を構成する内容を言葉に置き換えたとき、使われた言葉の一つ一つの定義が問題になる。
定義は、普遍的でなければならないのは言うまでもない。

定義、前提が習慣に左右されてはならないが、対象の習慣は考慮しなければならない。
マネジメントの定義の一つで、「マネジメントは人に関わる事柄である」がある。
対象に対しての意味である。

一つを定義しようとしたとき、一つだけでは収まらない。
一つの定義と間接、直接に関わる事柄がある。
これにも定義がある。
異なる事物に対して定義をしたとき、定義同士で矛盾やギャップがあってはならないのだ。
だから、普遍性が要求されている。

定義があり、前提があって、アプローチがある。
前提とアプローチには目的を外せない。
目的には対象がある。
対象には習慣と伝統がある。
人に関わる事柄である。

定義、前提、アプローチ、行動の方向と方法、目的、成果が一つになって構成されなければならない。
これらを合わせて、行動プロセスとしなければ、終われば始まりがある連続性に歪が現れる。

定義を導き出すために、知識と技術が必要である。
前回に表した「知の技術」がいる。


蛇足になるが、定義が一連の始まりではない。
定義の前に、人々の生活があり、人々の集まりがある。
社会がある。
生活を脅かす定義は、定義にならないし、理想にもならない。
この蛇足は、始まりの前に終わりがあったと示している。



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